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弁護士の随筆
釣     り 歴    史 そ  の  他
◆私の釣り歴
   /5
大物志向が無くなった
釣った魚は喰べること
リリースについて
◆竹竿作り
   
◆竹の竿というもの
   
◆竹竿作りの技術として
   


私の釣り歴−5−
2003/10/10
その後、多少の経験も積み、イワシのミンチ20s缶をかついで、フラフラしながら八幡野に行ったりしたが釣れない。
伊豆諸島ならと思い、金がかかるけど行くようになった。そのころは、石鯛竿、石鯛用リールなどの釣具はひと通り持っており、いっぱしの磯釣り師を自負していた。大島、新島、式根、三宅、三本根、神津、八丈と行った。半島よりは釣れた。釣果よりも、島の雰囲気が良かった。
   
大島では、リュウという少年と出会った。差木地でテントを張っていたとき、遊びに来た少年だ。カレーライスを喰べさせたら、スイカを持って来た。
また、名前は知らないが中学生の女の子からもなつかれたりした。
新島では、前田長男という老人と出会った。伊豆諸島小唄を教えてくれ、腹をすかしていたとき冷たい飯と冷たいミソ汁を喰べさせてくれた。
また、大島は差木地に、木村繁吉という釣りガイドが居て、釣りは全く素人なのに、玄人を自負していた面白い、愛すべき人が居た。(そこには、我が釣友の石鯛竿と、私のを、1本ずつ置いて、そのままになっている)
東京で、そんなことをしている場合じゃないぞ、と思いながら、金のかかる釣りをして来て、良かったと思う。
それは、あとから思ったことだけど、それは、自分の心のバランスを保ってくれたと思う。だから、自分にとって、釣りは、単に魚を釣るということではなく、もっと大事なことなのではないかと思う。

ともかく、20代までの私の釣り歴は、そんなものであった。
これから30代に入るけど、全くといっていい程、変わってはいない。
唯一、三宅の新鼻で、6,7sのシマアジをあげたことがハイライトであった。
シマアジは、磯の上物のスターであった。今や、船から釣っているが、それも2sや3sのものを・・・。
不肖、私が磯をやっていたときは、船で釣ることなど考えられなかったし、釣り人は誰もそうはしなかった。(今や、石鯛も船から釣っている)
これは、磯の猛者石鯛よりも、釣りあげることは、技術的にはるかにむつかしい。そのころ、20sクラスのシマアジの魚拓を見たことがある。本当?と思ったけど魚拓がある以上事実である。
ハリスはワイヤーであった。
私が釣った場合は、ハリスはナイロン10号であった。それがブッチギられるという情景を、想像して戴きたい。大の男2人がナイロン10号を引っぱっても切れない。手が切れる。それくらい、伸張力にたえるナイロン10号が、一瞬にしてブッチぎれるのである。ハリスをワイヤーにしても、敵の口ビルが切れる。それ程、彼の唇は弱いのである。
幸運に、彼を釣ることが出来たのは、1つには、タックルバランスが良かったと思う。そこでは、皆んな石鯛竿であったが、私の竿は、そのころ発売された磯の上物竿(大島5号)であった。柔らかいから、引き、というより魚の飛びに耐えられた。
もう1つは、技術の勝利であった。
それは、釣り雑誌の情報から得ていたし、釣り宿のオヤジも同じことを言った。
「リールはギアを入れてフリーにしておけ。当ったら、すぐに合わせるな。しばらくそのままにしておけ。」と言った。
午前3時ころに、釣り場に行ったというよりも、連れて行かれた。
11月後半の風の強い日である。もっと寝ていたいのに起こされ、「ホレ行くぞ!」と言われ、何?どこに?ああ、そうか、シマアジ釣りに来てるんだと思いつつも、何でこんなに早く?とか頭は混乱し、体は動くことを拒んでいる状態ではあったが、とにかく行くしかない、その為に三宅島に来たんだからと自分を説得しつつ起きあがった。
我が釣友も起きあがり、オヤジの軽トラで釣り場に連れて行かれた。なんと、そこには既に10数人の釣り師が陣を張っており、我々の入るスキ間がなかった。
しかし、サスガは我が釣り宿のオヤジ、「お前達、竿は1本にしろ、こいつら(私達)も入れてやれ」と言ってくれて、左右1mくらいのスキ間に入れた。
しかし、まだ、午前3時である。風はビュウビュウ吹くし、あたりはおどろおどろしい磯で、ドーンドーンと波が音を立てている。何で、俺はこんなところに居なければならないんだろうと我が身をのろったりし、眠いのだがそんな状況で眠れるわけもなく、3時間もヒザをかかえていた。
やがて、白々と夜が明けて来て、釣り師達は、仕事にかかった。
そうだ、不肖私もその1人だと思い、狭い我が釣り座に行き、イワシのミンチをこませる。ところが、向い風であったから、そのほとんどは、我が身にふき返えされ、みじめな格好になってしまう。
エエイ、コマセル必要はないだろ、足許を釣るのだから、アンタ達はコマせなさい、と開き直ったときに、左右の竿は、ドンというか、ゴンというかとにかく、水面に曲がった。不肖、私の竿もドンと曲がり、リールはギィーンと鳴った。すると、回わりの釣り師達は、竿を立てろとか、リールをストップにせよとか言う。それは聞えたが、それはアンタ達の思い、不肖私は、考えが違うと思い、道糸70〜80mくらいはそのままにしていた。その先は根があるから、また、道糸は150mくらいだから、そこで、リールをストップにし、竿を立てた。すると、敵は、左に回わった。左には、10人くらいの釣り師達が居る。そこを、かいくぐりながら、左に移動しなければならない。これは、少々むつかしいと思ったが、左側の釣り師達は、道をあけてくれた。しかし、その道は平坦でなく、岩場であるから、足許はおぼつかない。竿はグングン引っぱられ、足許がおぼつかない。これが魚かと思う程の強い引きで、少々不安を憶えた。
そこを、何とかしのぎながら、やがて、我が愛する敵の姿が見えて来た。
抜き上げると、バラスだろう。
彼の口ビルは弱いから、さて、どうするかと、チラッと思ったけれど、解決策は見つからない。手網を用意していかなかった。そんな大物が掛かると思っていなかったから。
ところが、まわりの釣り師は、ちゃんと用意しており、貸してくれた。
それも、自から手網でとってくれたのではない、我が釣友に貸してくれたのである。そのことは、釣り師として深い思いがあるのである。
釣った魚を自から手にするということが釣り師なんだというそういう思いがあるから、この魚は2人で釣るんだから、自分が手を貸してはいけないと、我が釣友に、手網を手渡したのである。我が釣友と、見知らぬ釣友のおかげで、釣魚の中のスターを手にした。
そして、はじめて、自分が釣った魚を喰べた。
そのことは、我が釣り歴でまた1つの革期であった。
それまでは、釣った魚は喰べなかった。

こんな釣りのハイライトがあって、また、30代は釣り以外のアウトドアを志向した。
「どうなってる会」を3人で結成し、いつまでも少年の夢を忘れないように年に1回は少年的なことをやった。そんなことで、マスコミにとりあげられて、もっとそんなことをしてくれと言われたけど、バカを言ってはいけない、アンタ達の為にやっているのではないと、これを拒絶した。そうして、富士樹海に行ったり、ラフティング(そのころは、そんな言葉もなかった。ゴムボートによる急流下り)をしたりしていたから、釣りはあまりできなかった。

そうこうしてるうちに、40代になってしまった。この時代の釣りは、ソフトになり、形としてはいわゆるファミリーフィッシングとなった。
とは言え、決っしてファミリーは釣りにつれて行かない。
釣りは、反ファミリーなのである。
不肖私にとっては、釣りは、非社会的なのである。
それ故に、私の精神世界でバランスがとれるのである。



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