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戦争と法
2003/8/27
戦争の法的定義は、簡単にいうと、相互に対等な国家主権の衝突である。ということは、国家は戦争する権限を有するのである。
我国は、憲法9条によって、その権限を放棄しているが、私の知る限り、そんな国は世界で日本だけである。
これを、誇りとすべきか、屈辱と思うか、意見は色々あるが、法的には、戦争は国家主権の最終的発動であって、国際法上認められて来た(現在も同様)ということをきちんと理解して論議すべきであろう。また、我国は、憲法上戦争を放棄した国であるが、それは自からの意思で決定したのではない、という歴史的事実をも理解しておかねばならない。

戦争とは国家主権の発動であって、法的には正しいと考えるのは、法の支配(民主主義)を確立した欧米文化の考え方である。
これに反して、どうも、我国では、歴史的にみても、そのような考え方は定着していない。戦争は争いであり、利己追求の為の暴力的手段であって、良いことではないという風に考えられている。「勝てば官軍」という言葉は意味深い。勝った方が正義というのは表向きであり、たとえ、悪であっても勝てば正義となるということである。
そういう国民性を持つ我々日本人は、第二次大戦の戦勝国が我国の戦争犯罪者を裁いた「東京裁判」に従容として服した。学生のころ見た、バートランカスター主演の「ニュールンベルグの裁判」というドイツにおける同様の裁判映画では、被告人となった法律家は、裁判権そのものを争った。戦争が対等な国家主権の発動であるなら、敗戦国の戦争関係者が犯罪者となる法理はないという欧米文化的法感覚である。私自身法学生だったから感銘した。

我国が、仮りに、勝ったとしても、敗戦国の戦争犯罪者を裁くようなことはしなかったであろう。
古来、我国では、国内における多くの戦争をして来ているが、敗戦国の領主や武将の首を切ったのは、それ自体が戦争なのであり、戦争犯罪者を裁くなんて大それた理念によるものではない。生かしておいたら、将来、自分がやられるから殺したのである。

我国の戦争の歴史の中で、平清盛は、それをしなかった。それが平家を滅亡させせることとなった。清盛は源氏との戦争に勝って、その棟領源頼朝を殺そうとしていたところ、何とかいう尼さんの懇願によって頼朝を、伊豆長岡へ流した。
これが、大きな、大きな間違いであった。俊寛と同様に鬼界島に流せば良かったのである。
伊豆は、関東、そこには、平安期の公卿どもに不満を持つ、開拡農民の発展段階である武装自作農が跋扈していた。彼らは、頼朝をみこしにかつぎ、京に攻め上ったのである。
清盛は、後の信長のように、国際貿易をしようとの進んだ経済感覚を持ち、都を京から に遷都した。これは、すぐれた政治感覚でもある。都を京に置いていると、公卿どもから、ゴチャゴチャ言われ、新規政権を確立することはむつかしいと考えたからであろう。

昨今は、戦争の法的定義が変化して来ている。
冷戦時代には、前述の古典的定義は確として存在していたように思えるが、これが終り、米国の一極支配体制がはじまった。これによって、相互に対等な国家主権の発動としての戦争は、現実問題としては無くなって来たのである。どのように変化しているかというに、湾岸戦争、それに続くイラクと米英の戦争をみれば容易に分かる。
戦争をしかける国は、先ず、他国のコンセンサスを取り付ける。その為に国連を利用する。それは何故か?

昔の戦争で、他国の了解を取り付けたのは、自国がよそと戦争している間に、その国から攻められないようにする為であった。超大国となった米国には、そういう意味では、他国の了解を取り付ける必要は微塵もない。ひとえに、自国の正当性を世界諸国から認めてもらいたいということである。

現在では、戦争は悪であると、世界のほとんどの人々が考えるようになった。だから、超大国となった米国でさえ、この戦争は正しいのだということを国内外にアピールし、そのコンセンサスが必要なのである。
国家は常に正当であり、その主権の発動である戦争も正当であるとの、戦争の古典的定義はここにおいて、変様している。
しかし、考えてみると、米国の正義はイラクにとって悪であり、イラクの正義は米国にとって悪である。正義とは、もともと相対的なものであって、絶対的正義というものは存在しないと言える。どちらか一方の正義を貫ぬこうとするときに、争いが起こるのは、人間関係においても同様である。

国家は、主権を有し、それは相互に対等であるとの国際法の基本原則は、今も変ってはいないが、このように戦争の正当性の意味づけが少し変わって来たように思える。
これは、むしろ危険なことである。
戦争に良い戦争とか正しい戦争なんぞありはしない。
しかるに、超大国の圧力をもって、戦争に正当性を認めさせることは、フェアーではないし、この傾向がさらに進むと、米国の正義が世界の正義となりこれに反するものは悪とみなされ、抹殺されてしまう。そうなると、民主主義の終末である。



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