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| 大和政権と神社−4.応神の上陸地A− |
| 2004/5/17 |
| 同系の神社が、東と西に在る場合、基本的には、西の方が古い。当時の文化は西から東に移動したことは前にも言ったが、神社も権力も一つの文化であるから、主流はそうなるものと思われる。 その当時、(古墳時代中期)文化が東から西に移動したとの証拠(文献、記録、考古学的事物)は乏しいのではないかと思う。 それが、逆流(東から西へ)したとされるのは、大和政権確立後の記録、記紀の記述にある。 これも、また、権力のモニュメントであるが、神社や古墳と異なり、単なる記述にすぎない。言葉は、何とでも言えること、現代も同様である。 物証を重視すべきこと、当然である。 文献、記録が豊富になると、それ自体が物証となり得るが、最初の文献記録は、証拠力に乏しい。 自己に都合よく言葉を記録するからであり、その当時の人々がこれを検証していない。 国民すべてが、文盲であるから検証のしようもない。 それ故、西洋の宗教に言うところの、「初めに言葉ありき」となる。 俗に言うならば、世の民が、文字を知らないときに、文字で記録することは、支配者となり得るということであろう。 だから、大和政権の祖先は神々となった。文字、言葉で。 そのことは、旧約、新約聖書により、キリストが神の子となったことに通じる。 少々横道にそれたが、大阪の住吉神社は、大和政権が記紀の三韓征伐を理由づける為に、そのモニュメントとして創成したのではないかと思う。また、神功の三韓征伐、神功の存在自体不明なところが多い。 こじつけと思われるかも知れないが、そのような見方に立てば、大阪の住吉神社に応神が祭神とされていないことを理解できる。 また、長門の住吉神社と、高石市の等乃仮神社は、説話、及び応神を祭神とする点で、同系等の神社と考えられる。 しかるに、大阪の住吉神社が全国住吉の総本宮とされているのは、同地が大和に近く、権力の影響を受けやすい立場にあったということではないか。 ここでは、応神と住吉との関係を考えているが、その時代には神社というものは存在しなかったし、その200年以上も後に中央政権により、もしくは、その影響の下に創立されているので、当初から、神社由緒は、記紀神話を正当化するという政治目的があった。そういう不純物を取捨選択して、その当時のことを考察しなければ史実は見えて来ない。 本論に戻ろう。 瀬戸内海を東征した応神軍団は、河内方面に上陸する前、淡路島に基地を設けた筈である。 軍事には全く素人の私でも、河内方面に上陸しようとするなら、その対岸にある淡路島において兵員、物資をまとめ、上陸地を偵察し、且つ兵員に休養を与えた後に上陸作戦を行う。 等乃仮神社は応神の上陸モニュメントの一つであり、その神社に、淡路島との間に上述した関係があったと古事記にも記されているが、果して、淡路に、これと関係し得る神社があるかというと、洲本市に、岸河神社という宗像三女神を祀る神社が存在する。 洲本の対岸(東北方面)に等乃仮神社(島石市)があり、その北どなりのほんの数キロ先きの堺市に応神、仁徳陵がある。 これを見つけたとき、我が空想は、何がしかの根拠を得て、先に進むことが出来たのである。 つまり、応神は、河内辺りに上陸したということを、乏しいながら、淡路の神社と高石市の神社、さらに遠く、下関市の神社が同系の神社であり、大阪の住吉神社は少し違うということで一応の結論を得て、先に進もう。 先にも言ったが200年を経て。 |
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