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弁護士の随筆
釣     り 歴    史 そ  の  他
歴史と法律−その共通点− ◆大和政権と神社
   1.はじめに
   2.宗像神社と北九州王朝
3.宇佐神社
4.応神の上陸地 @/A
5.伊勢神宮


大和政権と神社−4.応神の上陸地@−
2004/5/10
瀬戸内海を東進して、行き着くところは、大阪の河内あたりである。(神武東征説話では、その地で抵抗を受け、紀伊半島を回り、吉野から大和へ向かったことになっている。)
私見としては、応神が東征したと考え、且つ、応神陵が堺市に在ることから、応神は河内以南の海岸に上陸したと考える。応神(その子仁徳)陵が河内の南方に在るのは有力な証拠である。(但し、それらの陵が、応神・仁徳の陵かについては定かでないとする説がある。ならば誰なのか?という疑問が残る。この陵は、我が国一、二の前方後円墳であり、その体積は、ピラミッドをしのぐと言われている。そんな巨大な陵を造営した王もまた巨大であった筈である。この王が、万世一系でないにせよ、大和朝廷成立に大きくかかわっていることは否定することができない。)

王陵も権力の一つのモニュメントであるが、ここでは、神社というモニュメントと権力との関係を考えようとした。
だから、その近くに、応神を祭神とする古社があると考え、それは、住吉神社だろうと思っていた。ところが、大阪の住吉神社は、応神を祭神としていない。
その母神功皇后と、在筒男、中筒男、表筒男の命いわゆる住吉三神である。
ここでハタと行き詰まった。
しかし、神社は権力のモニュメントであり、応神陵が堺にある以上、必ず応神を祭神とする神社は、その近くに在るとの確信をもって調べた。
やはり在ったのである。
場所は、堺の南隣の大阪府高石市取石というところに等乃仮神社というのがあり、ここは明治になって近くの神社に合祀され、たくさんの神々が鎮座している。(菅原道真公まで入っている)その中に、誉田別命(応神天皇)がいた。主祭神は天児屋根命とされるが、もともと応神が祀られていた可能性も考えられる。明治の排仏毀釈、神社の統合は一定の政治目的をもって行われたものであり、古代の歴史を考え、神社祭神と大和朝廷との関係を史学として全く考えもせず、たまたま、その当時立派で見栄えのする神社にその他の神社を統合したにすぎない。それは、天皇陵を比定するときと同じ手法である。その結果、古来からそれぞれの神社が持っていた由緒などを散逸させたことであろう。同神社においても、主祭神が天児屋根命とされているのは、その神が説話上の神であり、中臣連の遠祖とされる神だからではないか。
 ところで、古事記〔仁徳(=応神の子)記〕では、この社の巨木(クスの木)が朝日にあたれば西の淡路島までその影が及び、また、その巨木で船を作り、カルノと名づけ淡路島に清水をくみに行き、神にささげたという説話がある。
これと同様の話は、長門一の宮、現下関市の住吉神社にもある。
島は小さなフタオイ島であるが。この住吉神社の祭神は神功皇后、応神天皇、住吉三神他である。このように、応神を祀る神社に、遠く離れていても、同じ説話がある。
ところで、この神社は、神功皇后の三韓征伐の説話に直接的関係がある。
神功は、そこを宮(豊浦の宮、この地はほんの少し前まで豊浦といわれており、現在は下関市に併合されている。併合されていないところは現在も豊浦郡、豊浦町である。)とし、記紀では三韓征伐に出陣したことになっている。
また、この神社には、前述のとおり応神が祭神となっており、樹齢2000年といわれる楠の木が霊木となっている。
私見としては、この住吉神社が大阪の住吉神社の元ではないかと思う。



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