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竹竿作りの技術として−1−
2004/4/5
最もむつかしく、分からないものは、「矯め」である。
素材の竹を真っすぐにし、強度をもたせるということであり、それは、火にあぶり、ため木で矯正することである。これが、竿作りの根本で、最もむつかしいということが分かったのは、5年以上過ぎてからである。
我が師匠は、教えてくれなかった。「どうしてですか?」というと、「実は、あのころ私も良く分からなかった。」という。あゝ、この師匠は良い人で、信用できる人だと思った。
そのころ、矯めが必要なとき、私から、その竹をとって、自らタメる師匠に、私にやらせて下さい、そうでないといつまで経っても分からないじゃないですかと言ったことがある。すると、師匠は黙って、私に竹を渡すが、アーしろコーしろと一切言わないのである。これは、何なんだろうと思った。そして、あさましくも、不肖私は、この神髄を昨日今日の弟子には教えないという、我が国特有の伝統の為せるものかと思ったりした。そして、我が家の工房で、高価な素材、自分で取って来た素材、(小豆島、伊豆、房総に、そのほか、車で田舎道を走るときは、竹林があると必ず止ってみたりした。)
そんな思いと苦労をして集めた竹を、未熟である故に、コガしたり、折ったりを繰り返して、基本は矯めであることが判った。
プロが言う、最初のひとのしで決まる。素人は、それが出来ない。
アレコレやっていると、竹は段々と硬化し、どうにもならなくなり、無理して真っすぐにしようとすると、折れる。竹は、真っすぐのように思ってたけど、枝を払うと、右や左に曲がっている。これを火にあて、矯め木を使って直線にすることが、重要であり、極めてむつかしいのである。

次に、切り組む。これは、作ろうと思う竿の設計である。
当初は、一本の竹で継ぎ竿を作ることが、自然で良い結果になろうと思い、そんなものを何本か作ったけど、うまくゆかなかった。
江戸和竿の特色は、数種の竹を組み合わせて、一定の目的に合う竿を作ることにある。
そんなことが判ったのは、随分後のことであった。
自分のイメージで作ろうと思い、そう言うと、我が師匠は、そうしなさいと言うのである。それで、やってみると、我がイメージとは全く違った竿が出来るのである。
何十本も、ズタズタに切って捨てた。(少々カッコよく言うと、陶工が意にそぐわない焼物を叩きつけて割るように・・・)
我が師匠は、どうしてあらかじめ教えてくれなかったかと、恨んだこともある。だが、我が師匠も暗中を模索していると言う。
師が、正直に弟子に言うということは、この世の中ではタブーであり、そんなことを言ったら、もはや師ではないということになる。だが、我が師は、正直にそんなことを言うのである。
そんな会話は、5年以上経ってからであるが、1,2年のころは、その場に自分が居ることに、何もかもから解放された、自由というか、充足感というか、あゝ、これなんだ、という自己の状態を体験した。我が師匠とフェロモンが合うのか、同僚の人達も、何か、言葉を交わさなくても、お互いに通じ合えるものを共有する、そんなものがあった。
あったというと、過去のことになるが、今でも何年ぶりかで行くと、そんな人達が居り、我が師匠も変わりない世界がある。

和竿作りの本には、切り組みが基本と書いてあるが、プロの職人としては、矯めは基本以前の基本であるから当然のこととして書かないのかも知れない。
だが、教えられる部分もある。
竹は節のところで、右に、その次の節は左にと曲っている。(節と節の間も曲がっているが)だから、節の部分に火をあて、ためようとする。
しかし、これが間違いと分かったのは、随分経ってからで、そのころには、貴重な竹を数10本も折っていた。
節の部分の繊維は縦ではなく、空洞でもないことは分かっていた。したがって、この部分は曲がらないことも分かってはいたが、どうしても、節に火をあてすぎてしまうのである。
だから、最初に、節に火をあててはいけないと教えるべきである。
初心者は、自信がないから、竹をおそるおそる火にあてる。そして、矯めようとすると相手はいうことを聞いてくれない。そんなことを何回も繰りかえすと、竹は段々と硬化し、さらにいうことを聞かなくなる。
そこで、「思いきって火にあてよ。但し、こがすな。」と教えるべきである。
竹は一本、一本、個性が異なる。竹の種類、年齢、乾燥度などにより、火力、あての時間等が異なってくるが、プロの書いた本によると、火にあてると竹の表情が変わってくる。すなわち、竹が自由になる時期がある。そのときが、矯めるときであるというが、それは、経験を積まなければ分からない。不肖私は、いまだに竹の表情が読めない。



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