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文学と法律
2003/8/20
"I love you."という外国語を、明治の文学者(坪内逍遙)は、「私、死にたいわ。」と翻訳したという。文学は人の心に呼びかける。
法律家は、そうは訳せない。「私、愛してます。」という殺風景な訳をし、一方では、数年先は、「殺してやりたい。」という風に変わるかもしれないという冷静な意識を悲しいかな、心のどこかに内在させている。

「私、死にたいわ。」と言ったいとかなしい女性をA女としよう。
そして、数年後、A女はそれ程まで愛した相手(B男としよう)を殺してしまうことにしよう。(文学的ではあるけれど、現実によくあることである。)
その場合、A女がB男を殺すまでの心の葛藤、そのプロセスは、文学の世界では、長編小説となる。
これが、法律の世界では、
  「A女は、平成10年3月ごろから恋愛関係にあったB男が、平成15年3月ごろ、
   C女と性的関係を含む親しい間柄になったことに嫉妬し、B男を殺害しようと企て、
   同年6月10日、午後8時30ころ、東京都文京区何町何丁目何番101号室
   B男居宅居間において、同人愛用のウイスキーボトルにトリカブトエキス何グラムを
   混入し、当該ウイスキーを、同室にあったガラス製カップに注ぎ、これをB男に供し、
   飲ましめ、もってB男を死に到らしめたものである。」
となり、味もソッケもない。
二人の女性と、一人の男性の恋愛と葛藤、そして、殺した人と、殺された人の名状しがたい人生の明と暗を、そんな殺風景な文章でくくってしまう。

法と文学は、これ程違う。
それは、それぞれの目的が異なるからである。法は、罪を犯した人を裁かなくてはいけないという目的があり、文学は、なぜ、どうしてそうなったかを芸術的に昇華させ、人の心に何かを訴えようという目的があるからだ。

だが、法は人を裁く為だけに存在していない。昔の法は、ほとんどがそうであったが、現代の社会では、法は、むしろ人を救済する為に在ると言える。それは法の上に、我々国民が存在するというというか、法は人が造るものということが大前提として認められるようになったからである。

文学は、人の心を動かし、ときには、生きる望みをもたらす。法は具体的に人を救済し、生きられるようにする。
よく言われる。弁護士は、法の番人だと。それは違う。法の番人は、裁判官であり、検事であり、警察である。
弁護士は、刑事的にも、民事的にも法に反した人を弁護する立場の者である。だから、弁護士というのかもしれない。英語ではlawyer (法律家)といい、米語ではAttoroney at law(法の世界における代理人)という。
日、英、米、と言葉のニュアンスが微妙に異なる。

英国と米国の違いは歴史の相違によるものだと考えられる。
英国(その人々)は古代・中世を経ているから、法は人民を規律するものとの伝統があるが、米国は、そういう社会から新天地を求めて行った人々が創った国であり、近世から始まっている。米国では、民主主義は絶対であり、法はpeopleの為に存在するものであって、人の上に法はないのである。
したがって、Lawyerではなく、法の世界における人々の代理人であって、その代理人は代理権を与えた人の権利と利益を追求しなければならないのである。そして、結果に応じてお金をもらう。ビジネスである。
Lawyerもお金をもらうのだけども、むつかしい顔をしてもらう。
ありがとうございます、とは言わない。

我が国、最初の文学といわれる源氏物語は、うろ憶えであるが、その冒頭は
  「いずれのおん時にか、女御、更衣あまたさぶらいけるに、
  いとやんごとなききわにはあらねどひときわときめきたるありけり」
という文章である。
私の古典文学の知識は、高校国語(乙)の教科書の範囲を出ないが、源氏物語はもっとも解りにくかった記憶がある。
その理由は、文章の骨組みである主語、述語、目的語などが、いたるところで、欠けているからである。例えば、上の文章では、主語がない。主語を探すと、「いとやんごとなききわにはあらねど」の次に隠されている。つまり、「それ程身分は高くはないけど、」他に抜きん出てみかどの寵愛を一身に集めていた○○という人が居ました。
主語は、この○○さんなのである。

これに対して、法の世界の文章は、主語、述語、目的語を明確にしなければその目的を達し得ないという制約がある。
また、その文章は多様な解釈がなされてはならない。つまり、こうとも解せられ、ああとも考えられるでは、目的を達し得ない。したがって、一義的な文章であることを良しとする。それ故、味のない文章となるのである。



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